どちらがいいかではなくどちらなら耐えられるか
結婚の決めては孤独の解消だった。
当時、私は一人でいることに耐えられなかった。
歳は若かったし、結婚していなくてもなんらおかしくなかったが、私自身がどうしようもなくみじめで寂しかったのだ。
どうして1人なんだろう?
どうして誰も私に触れてくれないんだろう?
そんな気持ちが私に覆いかぶさってきて、歩いているだけで涙が出てくるほどだった。
周りで結婚していく人などほんのわずかしかいなかったのに、何がそこまで刺激になったのだろう。
私の心の内の孤独。
私は結婚するしかない、それしかない、と自分自身を縛っていた。
結婚相談所や婚活でも遅かった。
もっと手堅いものがほしかった。
だから、知人の紹介。
相手は遊びたい気持ちが落ち着いている適齢期の男性。
私は当時絶対にこの人を離したくなかっただろう。
おもちゃ売り場で駄々をこねて動かない子どものように、私は結婚したいと願った。
神様はそんなに冷たい方ではなかった。
その人も今となっては不思議なほどスムーズに私を受け入れてくれた。
真面目で、計画的で、堅実な人だ。
結婚したら全てが落ち着く。
そんなものまやかしで、幻だと当時どれくらい考えていただろう?
もしかしたら全く考えていなかったのかな?
結婚そのものを信じきっていたのかな?
それとも相手を、信じていたのだろうか?
結婚して、幸せだ。
しかしそれは、絶対的なものではなく、相対的なものだとつくづく感じられる。
結婚しない今と、結婚した今。
どちらが、耐えていけるか。
独身を謳歌できる人は言う。
誰かのためにご飯を作って掃除をして子育てして…。そんな自由じゃない暮らしなんてこりごりだと。
でも結婚した私は言う。
独身の孤独は私には耐えられない。
今私は夫がいることで苦労したり傷ついたりするけれど、それは独身の頃のいたたまれなさに比べたら、ずっと耐えていけるものだと。
幸せの比べっこではない。
もし幸せの比べっこだけで済むなら、私は結婚を後悔しただろうし、独身でいられたはずだ。
あらゆるサービス、友人、仲間、ネットが私を楽しませてくれるんだから。
幸せの比べっこじゃないならなんだろう。
それはきっと、孤独の比べっこであり、不幸せの比べっこであり、自分自身の弱さがどう露呈するかの比べっこなのかもしれない。